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- 八軒町(近世)とは
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八軒町(近世) 江戸期~明治9年の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町「伊勢崎風土記」に町名が見える(県史料集2)新町の東から東西に伸びる町で,東は片町南は本町にあたる町名は,家数によるとも,町の長さによるともいい,また一説に「はちけん」と呼ばれる大灯火を天井に下げた店があったことによるのではないかともいう寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)には「八間町」と見え,名請人筆数5なお同検地帳には名請人のいない空間地が39筆もあり,このうちに「八間町ノ次より新屋敷」7筆が見えるまた「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上(同前)によれば,間数は東方の木戸から新町角まで48間,家数11うち店借3「伊勢崎町新古日記」によると,天明元年12月当町から出火,片町・新町の各一部へも延焼し,合計47軒が焼失している明治9年八片町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八軒町(近世) 江戸期~明治7年の町名江戸期は高崎城下町の1町で,田町支配田町はその町並みから1~3丁目に分けられたが,当町は3丁目の東の小路をいい,通町に通じる町名は当初8軒の町家があったことに由来する(高崎誌/高崎市史)田町は地子免許の町であったが,当町は地積2反23歩で,地子銭3貫121文を納めた(同前)唐沢年貢とよばれた地子銭については,文化年間の高崎藩町方式(愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫/県史資料編10)では,享保16年上申の項に「田町之内八軒銭拾壱貫六百六拾壱文」と見えるまた天保11年の下和田村唐沢分持高帳では,田町の項に「田町支配八軒町」とあり,屋敷2反23歩,1貫50文取,この鐚銭3貫114文・目銭129文と計算されている(更生高崎旧事記/高崎市史)明治7年田町となり,1~3丁目に続けて4丁目と俗称された... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八軒町(近世) 江戸期~明治11年の町名明治初年から岡崎を冠称江戸期は岡崎城下の1町籠田町にあった総持尼寺領岡崎城の北東,伝馬町の北,随念寺門前に接して町並みは東西に続く町名は,はじめ8軒の家が建てられたことに由来(旧岡崎市史)「旧高旧領」では総持尼寺領の杉本町・八軒町・島町を合わせて高121石余地内に総持尼寺支配の伝馬天神(岡崎天満宮)があり,8月25日の祭礼は盛大に執行されたまた,同社の西の一画に,文化~天保年間に活躍した岡崎菅生【すごう】の俳人鶴田卓池が燕岡庵を建てて住み,東西の俳人が集まった明治7年の書上では,戸数87,うち家持33・借家33・明家21,人口191(石原家文書)同11年梅園村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八軒町(近世) 江戸期~明治元年の町名四条通大和大路東入南側の町貞享3年・元禄9年の京大絵図には「やぶの下」とあり,西に水ちゃ屋が描かれる宝永6年京絵図では「八間丁」と見え,寛保元年京大絵図は「八間」「ヤブノ下」と描く天保2年京町絵図細見大成は「八けん」とある八軒町の称は,祇園のうちとして水茶屋が設けられて次第に町並みが整ったことに伴い生じたと考えられ,「宝暦町鑑」では藪の下を俗称とし,当町を上八軒町・下八軒町に分ける明治元年祇園町南側に合併... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八軒町(近世) 江戸期~明治11年の町名江戸期は岡山城下の1町,武家地城下の南部,外堀の外に位置する袋町で,東西の側に4軒ずつの侍屋敷があったことから,八軒町と称したという西は武家地六軒町,東は浜田町と武家地正覚寺裏門町元禄年間と宝永年間の絵図には,当町と正覚寺裏門町を合わせたあたり「八軒町」とのみ記されているが,いつしか当町を下八軒町,正覚寺裏門町を上八軒町と称するようになったという明治11年瓦町に合併される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
八軒町(近世) 江戸期~明治7年の町名福井城下のうち城下北部にある武家地の1町町名は,侍屋敷が8軒あったことによる「名蹟考」所載の福井之図によれば,南北の鷹匠町の西に「八軒丁家中」が見え,北に天王町がある南は内堀町内に,松岡口沿いに流れる芝原上水の水門口があった明治7年町名改正時の戸数18同年神楽下町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」